アートフェスティバル
伊豆高原アートフェスティバル「一枚の絵」
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・完成ではないがここでいったん終了、また時間を作って完成度を高めます。

2010年5月12日(水)
伊豆高原アートフェスティバルを機に
開催施設を回り、芸術談義に花を咲かせました。
その中の一つであるローズマダーにて行われた
「桑原宏・絵画展」にて一枚の絵に出合いました。
何のことは無い女性のヌード画なのですが物凄い完成度と迫力で私に迫ってきます。
ローズマダーの店主に
「この絵は特別印象的だ」と伝えると
絵にまつわる話を披露してくださいました。
話はこうでした。
まだ10代の画伯の初めてのヌードデッサンであり。
それは戦時下の話であったと。そしてその後の人生においても
何枚も何枚も何かに取り付かれたようにデッサンを書き下ろしていたと。
今でこそヘアヌード写真集などが乱刷されてますが。
戦時下では話が違います。
赤狩りなどの思想弾圧が横行する戦時下の日本で
ヌード画を描き続けると言う事がいかほどの事か。
その気になれば女性の裸が気軽に見れる現代とは訳が違います。
「そんな時代での女性の裸」です。
恐らくは、強烈なリビドーが体内をかけ巡りアウトプットせずに居られなかったであろうと。
そうせねば自分がどうにかなっちゃいそうな感覚は私もとてもよく理解できます。
表現者として共感せずに居られませんでした。
そして弾圧の危険性があろうとそれを貫いた意志が存在した事実が
「一枚の絵に凝縮」されていたのでしょう。
私は「女性の裸」に感動したのでもなく「紙の上に塗ったくった絵の具」に感動したわけでもなく
それらを可能とした「精神」そのものを具現化した「一枚の絵」に感動し勇気を与えられたのです。
「芸なす術を可能とする精神性を体現する道(スパイラル)」
その結果、この一枚の絵は美しいのであり本物であると思うのです。
そして、名を残すことなく歴史の狭間に消えた
アーティストが数多く居たとしても。
作品そのものは残り、伝えられた例は数え切れぬほどあるのです。
分かりやすい例えで言うと、
わが国の「国宝」の大半は誰が作ったものか詳細が残ってません。
他の国でもそうです。
しかし「作品」その物は大切に受け継がれ。
その精神性を垣間見ることが可能なのです。
芸術作品とは、表わした人とその保存と伝承を行った者の想いの結果なのです。
文章※武山よしてつ
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